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野茂英雄
- 生年月日:1968年8月31日
- 出身地:大阪府大阪市
- ポジション:投手
- 特徴:トルネード投法(大きく体をひねる独特の投球フォーム)
経歴
1. 近鉄バファローズ時代(1990年〜1994年)
- ドラフト1位で入団(1989年)
- プロ1年目(1990年)
- 18勝8敗、防御率2.91、287奪三振で「最多勝」「最優秀防御率」「最多奪三振」「新人王」「沢村賞」を総ナメに。
- 球界のエースへ成長
- 圧倒的な奪三振能力(4年連続最多奪三振)
- 1990〜1994年の5年間で78勝46敗、防御率3.15、1204奪三振。

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しかし、日本プロ野球史でも非常に大きなターニングポイント
後の「日本人メジャー挑戦の扉を開いた歴史的事件」が起こる。

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以下に、その流れと背景を詳しく説明する。
野茂英雄と近鉄バファローズの確執とは?
- きっかけ:契約更改を巡る対立
- 原因:野茂が求めたメジャー挑戦の理解が得られなかった
- 結果:野茂が「任意引退選手」として近鉄を事実上退団し、メジャーリーグへ移籍
詳細経緯
① 契約更改のもつれ(1994年オフ)
- 野茂は5年間で近鉄バファローズの絶対的エースとして活躍し、毎年最多奪三振を獲得。
- 1994年オフ、年俸交渉の場で、球団と金額面・待遇面・メジャー挑戦の可能性などで意見が対立。
- 特に、球団側の「管理野球」的な方針と、野茂の「もっと自由にやりたい」という考え方が根本的に噛み合わなかった。
② 監督・仰木彬の退任も影響
- 野茂は仰木彬監督を非常に信頼しており、仰木監督の退任(1994年)が、野茂の球団に対する不信感を増幅させたと言われている。
③ 近鉄球団の冷たい対応
- 野茂がポスティング制度がない時代にメジャー挑戦を希望したが、近鉄はこれを拒否。
- 球団は野茂の要求を受け入れず、結果的に野茂は「任意引退選手」として扱われ、国内では復帰できない状況に追い込まれる。
- 任意引退選手は日本国内の他球団ではプレーできないが、海外ならプレー可能だったため、野茂はその制度を使いメジャーリーグに渡った。
④ 結果:事実上の”絶縁”
- 近鉄球団は最後まで野茂を説得しようとしたが、野茂は決意を曲げず、1995年にドジャースと契約。
- 近鉄は球団としても、プライドとしても納得していなかったとされ、野茂と球団は長期間”絶縁状態”となる。」
https://number.bunshun.jp/articles/-/846113
なぜ「確執」とまで言われたのか?
野茂側の主張
- メジャーリーグに挑戦したいという純粋な夢と、プロとしてより高いレベルで投げたいという気持ち。
近鉄側の立場
- 当時の日本球界では「選手の一方的なメジャー移籍は前例がない」とされ、球団の管理権限や国内プロ野球の秩序を守る立場。
この確執が日本野球に与えた影響
- ポスティング制度誕生のきっかけ
→ 野茂の件をきっかけに、後に球団と選手が合意の上で海外移籍できる「ポスティングシステム(入札制度)」が作られた。 - 日本人メジャーリーガー増加の礎
→ 野茂の成功が、イチローや松井秀喜、大谷翔平らのメジャー挑戦に繋がる道を開いた。 - 選手の権利が議論されるように
→ 球団に一方的に管理されていた選手の移籍・キャリア選択の自由が社会的に認識され始めた。

近鉄とのその後
- しばらく野茂と近鉄は交流が途絶えた状態が続きましたが、
2000年代以降、野茂自身は「恨みはない」と公言し、徐々に和解ムードも見られました。 - ただし、近鉄バファローズは2004年にオリックスと合併し消滅したため、公式に完全な和解の場はなかったとも言われています。
まとめ
項目 | 内容 |
---|---|
発端 | 1994年オフの契約交渉 |
対立点 | 年俸、待遇、メジャー挑戦の可否 |
結末 | 野茂は「任意引退」し、MLBへ渡る |
影響 | 日本人メジャー挑戦の流れを作り、ポスティング制度のきっかけとなった |
その後 | 近鉄消滅、野茂は「恨みはない」と語り和解的なコメント |
2. メジャーリーグ挑戦(1995年〜2008年)
◆ ロサンゼルス・ドジャース時代(1995年〜1998年)
- 史上初の「ポスティング制度なし」でのメジャー挑戦
- 契約問題を巡り「任意引退扱い」としてメジャーへ移籍(当時は異例)。
- デビュー年(1995年)
- 13勝6敗、防御率2.54、236奪三振。
- ナ・リーグ新人王、日本人初のオールスター選出、先発登板。
- 「Nomo Mania(ノモ・フィーバー)」と呼ばれる社会現象を巻き起こす。
- 1996年:MLB史上初、日本人投手によるノーヒットノーランを達成(対ロッキーズ戦、コロラドの高地球場での快挙)。

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◆ その後のMLBキャリア
- メッツ、ブルワーズ、タイガース、レッドソックス、ドジャース(再入団)、デビルレイズ、ロイヤルズでプレー。
- ノーヒットノーランを2度達成(1996年・2001年)
- MLB通算:123勝109敗、防御率4.24、1918奪三振(日本人メジャー投手最多勝記録:長らく保持)
3. 野茂の功績・影響
- 日本人メジャーリーガーの道を開拓
- 野茂の成功がなければ、イチロー、松井秀喜、松坂大輔、大谷翔平のメジャー挑戦はもっと遅れていたと言われる。
- 「トルネード投法」の世界的認知
- 野茂の特徴的なフォームは、今でも世界中の野球ファンの記憶に残っている。
- 日米通算201勝
- 日本78勝、MLB123勝。日米を代表する実力者。
- 人格者としても知られる
- 慎重で真面目、無口で派手さがないが、チームメイトやファンからの信頼は非常に厚かった。
野茂英雄の主なタイトル・記録
年度 | タイトル・功績 |
---|---|
1990年 | パ・リーグ最多勝、沢村賞、新人王 |
1995年 | ナ・リーグ新人王、オールスター先発 |
1996年 | MLBノーヒットノーラン達成 |
2001年 | MLB2度目のノーヒットノーラン達成 |
日米通算 | 201勝(日本78勝、MLB123勝) |
まとめ
- 名前:野茂英雄(のも ひでお)
- 投球スタイル:トルネード投法、高速フォークが武器
- 日本の象徴的なエースから、世界の伝説的パイオニアへ
- 後世への影響力は計り知れない

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